その怒りに、ひとり勝手に打ちのめされた。
先日の国連気候行動サミットでのグレタ・トゥンベリさんの演説。
その訴える姿や内容に、自分はどうこう言えるほど彼女のことを知っているわけでもなく、これらの問題に特別な理解や解釈を語れるわけでもない。
グレタさんがどのような経緯で毎週金曜に学校を休み訴えを続け、サミットにボートでやってくるまでの原動力を得たのか詳しくは知らないんだけど、彼女はきっと、そこまでの「実感」の上で行動しているということは、確かに感じたわけで。この訴えに反応するのは特別なことではないし、火がつくのはいい。みんながみんな同じようにならなくていいとも思う。
一方で、こういう強烈なメッセージに対して挙がる、ファッション的な賛同やズレた批評に、個人的にいつも不愉快というか不審に思っている。正論だろうが善いことだろうが、それを訴える声の大きさや強さ、イメージによってのみ寄り集まることに、本題とは離れたところでの不気味な排他性を感じてしまうから。どこかに何かを思うところがあるのなら、それぞれのできることから行動すればいい。 広げればいい。グレタさんの気持ちをブーストに、それぞれの「実感」を原動力に。
で、テメーはと言えば、他人のこと言えた筋合いもなく、その大きく眩い志の陰で嫉妬や卑屈にも似た情けないほど小っちゃい感想を抱いていたんだという話。
彼女の言う「私たち」に、もはや自分は含まれていない。
書きながら失笑。でもほんと。同じような方向から世界を見て、似たような怒りや危機感を悶々と抱えていたつもりだった。だけど今回、彼女の訴えに、いつの間にか自分は”あちら側の大人”の一人になっていたんじゃないかと感じたわけで。権力も影響力ももたず、どこかのリーダーでもないくせに。ただ、ありがたくも今は秋の夜長。打ちのめされて惚けているうちに「自意識が過剰すぎるとは一概には言えないのかも…今回は」とも思えてきて、立ち直る。どこに立っていようが、他人事ではないわけだから。
”我らが”事務総長は言う。
「時間がなくなりつつある。しかし、まだ手遅れではない」
そう信じたい。自分が生きているうちに良い変化を感じることはないかも知れないけど、姪が、甥が、友人の子供たちが、ちょっとでも明るく安心して生きられる方の未来のために、出来ることから挑んでいこう。